雑言 NO.1279

このところ休みは断捨離の日々です。4月に亡くなった母の遺品整理をどんどん進めているのです。だいじな遺品をもう捨てちゃうんですか?って言われるかもしれませんが、今のうちにどんどんやっちゃいます。ひと息ついてからなんて言っているときっと億劫になっちゃうから、エイヤッとまだ体温が残っているようなものまで今のうち。幸い子供のころからモノに執着することがなかったもんで。

先週はクリーンセンターに2往復して300㎏を処分。だいぶすっきりしました。遺品を選別するのはカミさんの役目。運ぶのはワタシの役目。モノには見覚えがあったり、由来を記憶しているものがあります。手に取った時に処分を躊躇する気持ちが起きないこともない。それをやっているといつまでたってもモノが片付かないし、気持ちの整理もできやしない。ここは役割を分けて進めるのです。

母の世代とは戦火をかいくぐって生き延び、高度成長期に子育てをした人たちです。食べるものが無かった時代を知り、暮らしぶりがどんどん良くなる時代を謳歌した世代。生活に電化製品が登場しても何でも手でこしらえることができた人たち。その孫にあたる世代から手仕事に関してはスーパーマンのように見えた世代。モノを大事にすることに関してはワタシたちとは全然感覚が違っていました。

それだけに始末しなければならないモノの数も半端ない。ありとあらゆるモノが丁寧にしまってあるのです。50年前のアコーディオンカーテンが丁寧にタオルケットにくるまれて納戸の奥にしまってあったのを見つけた時、我が家は引っ越しを重ねてきたおかげでだいぶ少なくなってはいるものの、代々続けて住んでいる家にはいろんなものが眠っているんだろうなぁ、とため息が漏れたのでした。


ワタシたちは子どもたちが生まれて以来、ほとんど家具というものを買っていません。タンスはもらい物で済ませ、子どもたちの勉強机ももらい物、本棚は余った食器棚を転用し、衣類は小部屋を仕切って全部をクローゼットにしてしまった。ベッドだけは奮発したけれど、ダイニングテーブルはしぶとく買わずにいたら老親がしびれを切らせて買ってしまった。卓袱台に座布団でよかったんだけど。


本もほとんど図書館で借りて家に残すこともしません。電化製品だって生活に最低限必要なものだけ。モノがたくさんあふれている家ってイヤなんです。みんなが集まる居間は、広々として何もないのが理想的だと思ってます。子どもたちが一緒に住んでいるころは、何をするにも居間に集まってゴロゴロしてました。自分たちの部屋は寝るときだけしか使わなかった。みんな広いところが好きなんです。


クリーンセンターに処分品を持っていくと、係員が壊すような勢いでモノを放り投げます。その破壊的な仕業には、モノに執着のないワタシでもちょっと引いてしまう。要らなくなったモノだけれど、形あるモノが壊される瞬間は穏やかではない。モノが無くなってすっきりする代わりに、モノが壊れる瞬間に立ち会わなくてはならない。そこでまた不要なモノを持たないようにしよう、と誓うのです。


母の時代は生活を変えるモノが次々に登場し、モノを持つことがひとつのステータスでした。ワタシたちはそんな時代に育って、どんどんモノを消費して古いものを捨ててきました。そして次の世代はあまりモノを持たないようになるようです。モノがなかった時代から、モノがあふれる時代を経て、モノを持たないようになる。それだけ社会が成熟したってことか、とモノを捨てながら思うのでした。